文・写真/如月サラ
朝6時。早春の東京の空が、いつの間にか夜明けの色になっていた。誰もが深く潜り込んでしまう長く寒い冬を経て、季節が確かに移り変わりつつあることに、車に乗る前に気づいた。
確かに響く重いドアの音が、これから始まる旅を守ってくれそうな気がした。青いベントレー・フライングスパー・ファーストエディション。4人で乗り込み、静かに出発する。中央高速をひたすら北西へ向かってゆく計画だ。

クラシックなインテリアだ
目的地は白馬。雪の季節はもう終わったけれど、まだ春は始まっていない。そんな曖昧な季節だと聞いていた。
車は滑るように都心を抜けて、まだ冬の名残を残した山肌をなめながら走ってゆく。外界とは切り離された静かな空間だ。ルーフトップを空けると、頭上に青空が広がった。
「富士山だ!」
誰かが叫ぶと、美しく冠雪した富士山が左手に見えてきた。気持ちが浮き立つ。この車にはスポーツモードがついている。切り替えると、まるで別の車のようなエンジン音が響いてきた。一気に加速する。静かで上品なセダンが、唸りを上げながら駆ける狼に変わる。 目の前に甲府盆地が広がり、南アルプスの山々がそびえているのが見えてきた。中央高速で、日常から旅の気分に一気に切り替わる瞬間だ。

移動が旅に変わる瞬間。思わずアクセルを踏み込む
会社員としてのキャリアの後半に入った頃、会社を辞めて、大学院に入った。特にやりたいことがあったわけではない。偶然たどりついたようなものだった。
新卒の学生も、社会人も幅広く研究している大学院で、これまでに会ったことのない人たちに大勢出会った。30年ぶりの学生生活を楽しみ、学問の厳しさを知り、笑ったり泣いたりした。
その時の同じ研究室の仲間が、企業勤めを辞して会社を立ち上げ、白馬で小さなイタリアンレストランを併設した古民家ホテルを始めたのだ。当時、巨大なIT企業で重責を担っていた人が、今ではフライパンを振っている。その姿を見に行きたかった。
一緒に出かけたのは、同じ研究室でともに過ごした仲間たち。「彼のところに遊びに行こう」と声をかけると、集まってくれた。 甲府、諏訪、松本、安曇野。順調に車は北上してゆく。ランチは湖畔で取ろう。皆でそう決めて、白馬の手前にある青木湖を目指す。湖畔にぽつんとカフェがあった。よく晴れていたので、テラス席を選んだ。

青木湖越しに北アルプスの
白馬三山(しろうまさんざん)を望む
まだ雪の残る山々に囲まれた景色は、まるでノルウェーのようだ。ひとり、水面の近くまで降りてみる。とても静かだ。
それもそのはず、この湖には一本の川も流れ込んでおらず、湖底から湧き出る水で満ちているのだという。透き通った湖底のさらに底から、長い時間を経て音もなく生まれてくる水を 眺めた。

水深は58メートル、透明度は9メートル。水面は静寂そのもの
ホテルへ到着する頃には、もう日が傾き始めていた。夕方の光がキラキラと山肌に鋭い切れ込みを入れている。ボディにその光を反射させて、車は駐車場に滑り込んだ。同じ研究室でしのぎを削ったかつての同期が、慌てて飛び出してきた。
「すごい車がやって来たと思ったら、君たちだったのか!」
私たちの鮮やかな登場によほど驚いたのだろう。車好きの目が輝く。

「古民家ホテルYUWAI(結)」
エプロンをかけてコック帽をかぶったその姿に、私たちも驚いた。彼は人生の後半をこの白馬に賭けたのだ。その場所がここなのだ。
「わあ、すっかり料理人じゃないの!」
笑い声が山々に響いた。
宿の隣に小さな小さな一軒家のイタリアン・レストランが併設されている。そこが彼の今の前線だ。夕暮れの色が濃くなる頃、今回集まった7人でテーブルを囲んだ。

Trattoria Liberta。レストランだけの利用も可能
メンバーのひとりが、シャンパーニュを持ってきてくれていた。De Saint Gall。彼の家族の縁が、このシャンパーニュの畑の持ち主とつながっているらしい。
抜栓し、皆のグラスに注いだ。きらきらと金色の泡が立ち上る。
これまでたくさんのシャンパーニュを飲んできたけれど、こんなにそっと包み込むような優しい泡には、出会ったことがなかった。
De Saint Gallはシャンパーニュ地方の栽培家による協同組合「Union Champagne」によって運営されているメゾンであり、彼らは個々の生産者でありながら、共同で醸造・熟成をおこなっている。この再会の夜に、これ以上ふさわしいシャンパーニュがあるだろうか。

仏・アヴィズを拠点とする協同組合「Union Champagne(ユニオン・シャンパーニュ)」が手がける。
グラン・クリュ/プルミエ・クリュにまたがる畑を所有する栽培家たちが結集し、
安定した品質と高いエレガンスを両立させたキュヴェを生み出している

旅先での乾杯はいつも素晴らしい夜の始まる合図
自然に皆が立ち上がり、グラスを片手にあちこちで輪ができてゆく。2人になったり、3人になったり。自由なその空気は、まるで研究室で過ごしていた頃のようだった。
私たちは最後に、彼がローマで修業してきたばかりだというカルボナーラをリクエストした。白馬は真冬がハイシーズンだ。その季節が終わったあと、ローマに渡り、お目当ての店を食べ歩き、店主に声をかけては言葉を交わし、時にはレシピを伝授してもらい、得意料理にさらに磨きをかけてきたのだという。探求熱心な彼らしい話だった。

進化するカルボナーラの「今」を味わう
賑やかなテーブルからふと目をやると、窓の向こうに満月の1日前の月が上がっているのが見えた。
予報では夕方から雨。でも深夜まで天気は持ちこたえていた。あのときの月は、きっと自然からの贈り物だったのだ。

白馬は冬がもっとも賑わう美しい季節

「古民家ホテル YUWAI」ではワークスペースをドロップインで使うことができる
それぞれの人生とそれぞれのキャリアを歩いてきた私たちが、あるとき、ひとつの大学院の研究室で偶然、同じ時期に机を並べ、ひととき濃密な日々を過ごしたのち、またそれぞれ違う道を歩いている。そのことに対する祝福のように思えるシャンパーニュと、十四日目の月だった。

「古民家ホテル YUWAI」の2階にやわらかな午後の日が差す
翌朝は、予報通りの雨で目が覚めた。ぐっと冷え込んで、山の空気が肌に刺さった。そっと起き出して少し歩き、早朝から開放されている足湯に入りにいった。足先から、次第に全身が温まってくる。

白馬八方温泉和(なごみ)の湯の足湯は朝6:00〜19:00
まだ眠っているかもしれない仲間たちのことを思う。皆、幼い頃に夢見た自分ではなかったとしても、自分の居場所だと納得できる場所にめぐりあっただろうか。そこがゴールだろうか。 いや、私たちはまだ完全には満ちていない。昨夜見た月のように、まだそのすぐ手前なのだ。けれど、満ちる時はすぐそこまで来ている。そんな気がした。

車両協力=ベントレーモーターズジャパン
如月サラの[葡萄酒奇譚]バックナンバーはこちらから
https://www.whynot-web.jp/author/sara_kisaragi/

如月サラ(きさらぎさら)
作家。マガジンハウス勤務時代、
Hanako編集部で90年代からワイン特集に携わる。
仏シャンパーニュ騎士団シュヴァリエ叙任。
猫5匹と東京と熊本の二拠点生活中。
趣味は写真撮影。
著書に『父がひとりで死んでいた』(日経BP)