「マッセート2023」──ボルゲリの地が語る、力強さとエレガンス
文/山田 靖
トスカーナの海を望む丘に、かつて「ブドウ栽培には向かない」と思われていた土地があった。
けれど、人はその土地の可能性を信じた。青い粘土にブドウを植え、海から吹く風と地中海の陽光に、その未来を託した。
それから40年余り。いま、その場所から生まれる「マッセート」は、世界中のワインラヴァーが新しいヴィンテージを待つワインになった。
そしてまた、新しい一本が誕生した。マッセート2023。この年、ボルゲリの自然は、ワインにどんな表情を刻んだのだろう。
「土地を信じる」ことから始まったワイン
ワインの世界には、ときどき「土地を信じること」から始まった物語がある。
トスカーナ沿岸、ティレニア海を望むボルゲリ。1980年代初頭、この地のある斜面にブドウを植えることには、反対の声もあったという。それでも、その土地には可能性があるという直感を信じた。地中深くに横たわる太古の海底由来の青色粘土、海から吹く涼しい風、そして水面にも反射する豊かな陽光。その組み合わせから、やがてひとつの特別なワインが生まれることになる。
その名は、マッセート(Masseto)。ワインの名前であると同時に、ブドウ畑、そして醸造施設そのものの名前でもある。1986年の初リリース以来、夏の終わりから秋の始まりになると、新しいヴィンテージが世に送り出されてきた。
青い粘土と海風。マッセートを形づくるもの
マッセートを語るうえで欠かせないのが、この土地を象徴する青色粘土質の土壌だ。
太古の鮮新世には海底だった土地に残る粘土。そこに地中海の豊かな陽光が降り注ぎ、ティレニア海からは涼しい潮風が吹く。力強さとエレガンス、そして複雑さを併せ持つマッセートの個性は、この特異な土地から生まれている。

土地の個性をワインへ映し出すため、ブドウは区画ごとに収穫し、それぞれ別々に醸造。その個性を見極めながらワインへと仕上げていく。自然の恵みであるブドウへの敬意と、人間の介入をできるだけ抑えること。それがマッセートのワイン造りを貫く哲学でもある。
雨と陽光、そして涼しい夜。2023年のドラマ
2023年は、穏やかな冬から始まった。
春には雨が降り、土壌に十分な水分が蓄えられた。一方で、畑ではブドウの状態を見極めながら細心の注意を払った選果が求められた。テクニカルディレクターのマルコ・バルシメッリが語るように、自然から与えられた試練を受け止め、それを価値へと変えていく一年でもあった。
やがて夏を迎えると、天候は安定する。快晴と豊かな陽光に恵まれながらも、極端な猛暑にはならなかった。春に土壌が蓄えていた水分もブドウの穏やかな成熟を支え、凝縮感とバランスを備えた果実が育っていった。
そして8月末には恵みの雨。9月になると、夜には涼しさが戻った。この寒暖のリズムが複雑な香りを育み、酸とフレッシュ感を保ちながら、フェノール分と糖分もバランスよく成熟していく。
バルシメッリは2023年を、**「生命力に満ちた、確かな手応えを感じるヴィンテージ」**と表現している。
猛暑による力強さではない。雨、陽光、そして涼しい夜。
2023年は、自然が刻んだ緩急そのものが、ワインの生命力へと変わったヴィンテージなのかもしれない。
畑から、わずか数分。マッセートの精密なワイン造り
収穫は9月6日に始まり、10月5日に終了した。
ブドウは区画ごとに丁寧に手摘みされ、房を傷めないよう15キロの小型コンテナで運ばれる。興味深いのは、その先だ。
マッセートの醸造施設は、なんとブドウ畑の地下にある。
そのため収穫されたブドウは、わずか数分で醸造施設へ到着する。除梗して柔らかく破砕した後も、ポンプで強く送り込むのではなく、重力を利用してコンクリートタンクへ。畑から醸造へと移る時間を可能な限り短くし、果実をできるだけ穏やかに扱う。
こうしたディテールを知ると、マッセートが大切にしているものが見えてくる。
それは、ワインメーカーが何かを「加える」ことより、畑から届いたものを、できるだけ損なわずにワインへ移すことなのだろう。
1980年代、まだ誰も確信を持てなかった土地の可能性を信じることから始まったマッセート。
青い粘土、ティレニア海からの風、トスカーナの陽光。そして、その年ごとに異なる自然の時間。
ひとつの土地を信じ、その土地が一年かけて語ったことを、一本のワインにする。
マッセート2023もまた、その長い物語に加わった新しい一章である。

